その昔、丸子富塚地区と地続きであった御山越地区は、源流を吾妻連峰に発し、庭坂、沢又を経由して阿武隈川にそそぐ松川の流れが、度重なる洪水により沿川各地で村を分断させましたが、復旧工事を重ねて現在の流れになり、その結果として出来上がりました。このため、昔は丸子村と御山村での境界争いもあったようですが、御山越は飛び地という形で大字名の「丸子」が残ることになりました。

 元来、この地は田畑の農地がほとんどで、曲松から岩屋下に抜け信夫山山麓を通る通称「茶屋下線」が生活道路になっていました。昭和40年頃まで住宅は2軒しかなく、松川には簡易橋があるだけで、出水の度に流されたようです。子ども達の学区は矢野目小学校で、また、福島の街に買い物などに出掛けるには、曲松から森合を通るのが一般的だったそうです。

 それまで福島の市街と信夫山で分断されていた御山地区に、昭和45年に信夫山トンネルが開通しました。国道13号線の路線が飯坂街道から御山・平野地区を経由するようになると、格段に交通が至便になり、急速に開発の波が押し寄せました。昭和50年代も中頃となると多くの住宅が建設されるようになりました。このような経過の中で、御山越町内会は昭和56年6月に発足するに至りました。

 一方、三條院地区は、信夫山北東部に位置し、御山越地区の 南東側に隣接した高台にあります。この地区には、三峯山、金剛山、石裂山の神々をまつった霊場である「こぶがはら神社」があり、かつては村人の祈りが続いていました。21世紀に入って開発が進み、都季の杜「御山」緑地協定(都市緑地保全法)地区としての町並みを形成しています。

こぶがはら神社 [PDFファイル/327 KB]

丸子三條院公園 [PDFファイル/819 KB]

今昔マップ 地理院地図(電子国土Web)(国土地理院外部サイトへリンク)